星辰は巡る

 アマチュアライターとして、天文、軍事史、科学技術などに関するエッセイを書き連ねていきます。

山本五十六は海軍大臣になれたのか

 太平洋戦争開戦時の連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将といえば、帝国海軍において最も有名な軍人の一人と言ってよいだろう。群を抜く統率力、大艦巨砲主義の時代に航空戦力に目をつける先見性、国際的な視点で物事を考える視野の広さなどは今日的な視点からも目を瞠るものがある。米英との戦争への道を開くことになるとして、海軍次官時代に米内光政海軍大臣や井上成美軍務局長と共に日独伊三国同盟の締結を阻止し続けたことや、実戦部隊の最高責任者として、圧倒的な米国との国力差を鑑み、従来の漸減邀撃に拘ることなく、真珠湾攻撃を案出、実行したことは、彼のこれらの特質が歴史を刻んだ例示とみることができる。

 井上成美によれば海軍大臣の最適任者といわれるほどの人物であったが、意外にも海軍次官になるまでは海軍中枢の職を務めてはいない。太平洋戦争において海軍三顕職を務めた九人(連合艦隊司令長官山本五十六、古賀峯一、豊田副武、小沢治三郎、海軍大臣は島田繁太郎、野村直邦、米内光政、軍令部総長永野修身、及川古志郎、豊田副武)の中でその経歴を比較すると、その事実は如実に明らかとなる。この九人は、海軍兵学校の年次で見ると、永野修身が28期、米内光政が29期と期が少し離れているが、31期の及川古志郎、32期の山本五十六、島田繁太郎、33期の豊田副武、34期の古賀峯一、35期の野村直邦、そして37期の小沢治三郎と続く。

 このうち、山本五十六の前後の期を中心に焦点を当てて人事を見てみる。島田繁太郎は及川古志郎の後任を三回、永野修身の後任を一回、そして山本五十六や島田繁太郎の同期でやはり海軍大臣連合艦隊司令長官を歴任した吉田善吾の後任を一回務めている。また古賀峯一は島田繁太郎の後任を三回、豊田副武の後任を二回、豊田副武も島田繁太郎の後任を二回、そして吉田善吾の後任を三回務めており、海軍は、及川古志郎、島田繁太郎、吉田善吾、豊田副武、そして古賀峯一で、このあたりの期の人事を回していることがわかる。

 また、もう一つの指標として、軍令部の部長経験の有無がある。九人の経歴を並べてみると、実戦派で軍令部次長になるまで中央の経験がほとんどない小沢治三郎を除き、山本五十六以外は、軍令部の部長(組織改編前は班長)ポストの経験がある。また、小沢治三郎にしても連合艦隊参謀長の経験はあるが、山本五十六はこのポストも経験していない。戦争のための組織である海軍において、山本五十六は戦い方を考えるポストの経験がないのだ。

 組織を背負って立つ人材はそのグループの中でポストを回していくといったあたりは、通常の会社でも同じであろう。山本五十六は在米駐在武官軍縮会議代表団の幹部といった国際関係、そして航空本部技術部長や航空本部長といった航空関係の要職を経ており、スペシャリストとして高い評価は得ていたものの、その視点に立つと、海軍次官に抜擢されるまでは海軍という組織を背負って立つ人材とは見られていなかったと見做すことができる。今日的には高い評価がされることが多い山本五十六も、同時代の中では、ある時点までは必ずしも輝いた存在ではなかったのだ。歴史は後世から俯瞰的に眺めることで全体的な評価をすることができる。山本五十六のケースはその好例と言えよう。